こじらせ部屋からの脱出

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「差別」を定義する

先日こちらの記事を読んで考えていた。

www.watto.nagoya

 

そっかぁー、差別する自由はないのかー!!

 

俺も差別されたくないから差別しないことにしよう!!


でも差別ってしないようにするにはどうしたらいいの?


ていうかそもそも差別って何?



というわけでこの記事では差別とは何かを考えた。

もしよければ、賢明なる諸氏のご意見を賜りたい。


以下、おびただしい数の差別表現例があるが、過去現在において一般的に問題に挙がりやすく、また私を含めた日本人に身近に感じられそうな表現を選出したにすぎない。
全て私の思想とは関係がないのであらかじめ承知いただきたい。もし傷ついた方がいたら申し訳ない。
私の差別に関する考え方が気になる方は「差別は悪か」あたりまで読み飛ばしていただいて構わない。

差別の定義

差別構文の導出

wikipediaによると差別(さべつ)とは

特定の集団や属性に属する個人に対して特別な扱いをする行為である。国際連合は、「差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為である。」としている。

 引用:差別 - Wikipedia

 

つまり「集団・属性に属する個人に対する除外行為や拒否行為のこと」と圧縮できる。
実際の発言に置き換えると以下のような文章になるだろう。


[発言者]「 [被発言者] は [属性] だから [レッテル] 

例:Aさん「Bさん は 黄色人種 だから バカだ


以下、この文章構造を差別構文と呼ぶ。


このあとこの差別構文について詳しく吟味するが、結論は先に述べておく。

それは

差別構文に当てはまる言動のすべて、

つまり「属性から何らかのレッテルを張ること」のすべて

差別行為となる可能性がある。

ということだ。
 

もしよければ引き続きお付き合いいただきたい。 

用語説明

この記事で使用する用語を説明する。

発言者- 発言・行動する人。差別行為をする可能性がある。
被発言者- 発言・行動を受ける人で。差別行為を受ける可能性がある。
属性- 被発言者が属する性質。   
わかりやすいものでは性別・年齢・国籍・民族・文化・思想・能力・経歴など
レッテル- 発言者が、被発言者の属性から導いた事象。
ここではその感情の置き所や利益・不利益を考慮しない
差別度- ある言動の差別的である度合い。高いほど差別的であるという意味。

 

差別構文のバリエーション

差別構文には数え切れないほどのバリエーションがあるが、ここではわかりやすいものとして省略形を挙げる。

被発言者の省略

[発言者]「 [属性] は [レッテル]

例:Aさん「黄色人種バカだ

被差別者=属性とする構文。同様の構文は以下でも大量に扱うので承知おき願いたい。

レッテルの省略

 [発言者]「 [被発言者] は [属性] だ」

例:Aさん「Bさんは黄色人種だ

これは文脈によるが、レッテル(侮蔑)を含む使い方は容易に想像できるだろう。

 

差別ではない構文

・属性の省略

[発言者]「[被発言者]は[レッテル]

 例:Aさん「Bさんはバカだ

もちろんBさん個人を属性と捉えればこれも差別に当てはまるかもしれないが、その場合はただの悪口のような気が、差別とは別物のような気がしないだろうか。

そう、問題はこのあたりの「気がする」を排除できないところ、そのさじ加減が個人によってバラバラな事だ。

よって以下では差別構文を分解分析し、何が差別かどうかを左右するかを明らかにしたい。

 

差別構文の分解

以下の文章は差別だろうか。

・「あの子は団地の子だから遊んじゃいけません」という命令
・「ニート社会不適合者」という発言
・「重病患者見ごろしにしろ」という提案

私はいずれも差別に当てはまると考えるが、人によりけりだというのも理解できる。なぜならその「属性」「レッテル」の性質がいずれもバラバラだからだ。

ではその「属性」「レッテル」とはなんなのだろう。一つずつ掘り下げていこう。

差別構文の属性

多少なりとも差別問題に興味を持っている人なら、以下の属性を指して排除・拒否・非難することが差別であることは理解できるだろう。

身分・出身「スラム出身者犯罪者予備軍」という決めつけ
人種・民族「日本人出ていけ」というスピーチ
言語・地域「北海道という未開の地の者にうちの娘はやらん!」という親
性差「クズ」「カス」(適当)

これら属性の共通する点は「生まれ持った要素が強い属性」ということだ。これら「生来の属性」を指してレッテルを張ることが差別であることは共通認識として前提とさせてもらおう。本人にどうにもできないことを指してレッテルを張るのは差別度が高い。

では外見や能力、職業や経歴はどうだろうか。


外見生来の属性とは言えないだろうか。
明らかに美形に生まれた人がいて、一方でいまいちな造形で生まれた人はいる。
両親のDNA、養育期の食事習慣。とても生まれ持ったものと無関係とは思えない。

能力についてもそうだ。
努力の多寡はあるにせよ、遺伝と教育環境の差が能力育成や精神安定に影響があるのは間違いない。

ちなみにこれら外見・能力「部分的挽回が可能な属性」ともいえる。少なくとも外見は身なりを整えればある程度よくなる部分があるし、その気になれば整形もできる。能力は、捉え様と頑張りで一部なんとかなる。

ただ「挽回可能な属性だから差別ではない」としてよいかというとまただと思うのだ。ただ生来100%の属性よりはちょっと支持を得やすいというだけ。

ではより生まれ持ったものと言いづらい属性も同様だろうか。たとえば職業や経歴

職業については能力と人脈と社会背景の結果といえるだろう。試験や面接をクリアする能力や仕事を得る人脈があればいい職に、そうでなければよくない職に。そして能力が生来の要素を持ってる以上、完全にその人次第とはいいがたい。社会背景はなおさらだ。

経歴も同様だ。
家庭環境と少年犯罪にはある程度の相関が見て取れる。生まれ育った環境の影響は避けられない。参考:http://www8.cao.go.jp/youth/kenkyu/hikou4/gaiyou/gaiyou.html



…すでにお気づきだろうが、人間のほとんどの属性は、生まれ持ったものの影響を多かれ少なかれ受けている。ただ、一部の属性については、そうなるまでに選択肢がいくつかあったというだけだ。


さてここまででは虐げられがちな属性について話してみたが、ここで視点を変えて一般的に地位の高い属性についても考えておこう。

地位の高い属性

ここでの結論は、一見身分・立場が上の相手に対しても、除外・拒否・非難が含まれるならそれは差別だ。例えば以下のような。

経営者金の亡者」という思い込み
リア充氏ね」というつぶやき
タレントプライバシーは必要ない」という業界ルール

なんでって、これらが差別でないと言う手段がない。
明らかに先述のwikiの定義、つまり「集団・属性に属する個人に対する除外行為や拒否行為のこと」に合致するし、生まれ持ったものの影響を受けてそれら評価の高い属性を得た人もいるだろう。
結局、その人の地位の高低や有利不利を問わず、ある属性を指して除外・拒否・非難することは少なくとも差別と言えるだろう。

何か理由をつけてこれらのような言動をとるのであれば、それは勝手にマイルールを設けるなどして自分に差別を許可しているに過ぎない。

 

また、差別主義者への差別は差別にあたらない、みたいな文章をどこかで見た気がするが、もちろんそれも差別に含まれる。何らかの理由で正当化したにすぎない。
その思想が、生まれ持ったものの影響を受けてないとは言えないからだ。

「属性」に関する結論

さて属性についていろいろ切り分けて考えたが、結論は3つ。
・生来の属性に対してであるほどより差別的
・生来の度合いが小さいからといって差別でないとは限らない。
・属性が有利であるからといって差別でないとは限らない

さてそれでは今度は差別構文の「レッテル」について考えてみよう。

 

差別構文のレッテル

一般的な定義では、差別とは「何らかの除外行為や拒否行為」とのことだ。

よって何かを禁止・除外する行為はより差別度が高いといえるだろう。
その場合より過激で暴力的で、生存にかかわる場合に差別としての度合いが高まる。挽回不可能の差別行為だろう。-500ポイント!的な具合に。

では非難ではなく「一見平易な事実」や「ポジティブなワード」だったらどうだろうか。

一見平易な事実

日本人はアングロサクソンより肌が黄色い
専業主ふ給料を稼いでいない
男は女より犯罪率が高い

これらは意図して差別として捉えられそうなフレーズを選んだが、まず事実だろう。

事実ではあるものの、これを発言したり表明すると「差別発言だ!」とバッシングされる絵が浮かぶ。たぶん人の感情として、事実であるから差別ではない、とは言えない。デタラメよりは信憑性があり支持は得やすいかもしれないという程度だ。


ではポジティブな表現・扱いならどうだろう、決して差別にあたらないと言えるだろうか。

ポジティブなレッテル

「彼女は美人なので評判がいい
「彼は高学歴なので採用面接足切りを逃れる

…決してポジティブだからといって差別と無関係とは思えない。その理由は2つほどすぐ浮かぶ。

①「背景や言葉の受け取り方次第ではポジティブな言葉も非難の色を持つ」
褒めたから相手が喜ぶとは限らない。むしろそれで雰囲気を悪くしてしまった経験も人によってはあるだろう。言葉を伝えるには信頼と説得力が必要で、皮肉めいた響きを持てば、その時点で差別構文は差別の色を強く帯び始める。

ちなみに「あの子は親がアレなのに立派だね」という逆接の構文でも同じことが言えるだろう。どう見てもポジティブじゃないけど。

②「優遇の裏には冷遇があり、それは差別とほぼ同じ」
高学歴の人が足切りを逃れるということは低学歴の人は足切りの憂き目に遭う可能性があるということだ。いまいちピンとこない人も以下の例を見ればどれかハッとするだろう。
・レディースデー(女性なので安くなる)→男性は?
・学割(学生なので安くなる)→社会人は?
・働く女性はかっこいい →専業主婦は?

個人的に上記例に文句を言うつもりはないし、合理ないしは感情で理解できる。ただ、それを差別と無関係と証明することは、少なくとも今の私にはできない。
もっとも、単純な悪意ある表現よりかはずっとマシだろう。

「レッテル」に関する結論

・レッテルについて、差別度は以下のように加算される。下であるほど差別度が高い。
 (発言0)
 <<「優遇・称賛」
 <<<「事実」
 <<<「排除・拒否・非難」発言
 <<<「排除・拒否・非難」行為
・上記のいずれも、差別でないとはいえない。

差別は悪か

ここまでの主張をまとめると、

「属性から何らかのレッテルを張ること」のすべては差別行為となる可能性があり、その内容は程度の差でしかないということだ。

相手が偉かろうが貧しかろうが美しかろうが醜かろうがどこの生まれの誰だろうが、それを理由にレッテルを張ることのすべては、結局差別なのだ。


では改めて、差別は絶対悪なのだろうか。

私は、それは正確ではないと考える。

なぜならそれらの差別行為は、人がよく生きるためのひとつの手段だからだ。
つまり差別とは、「少ない情報からよりよいアクションを起こすための思考飛躍」なのだ。

外見で交際相手を選ぶのは、本能の生存戦略だから

学歴で採用するのは、何らかの能力の保証が欲しいから

犯罪者を隔離するのは、地域の治安を守りたいから

遊ぶ相手を選ばせるのは、自分の子どもを守りたいから

異文化を避けるのは、背景の違う相手と不要な軋轢を避けたいから


それらが正しいかどうかはわからない。ただそうしようとした意図はわかるだろう。全部、少ない情報から自分の何かをよくしようとした結果なのだ。

ただ一方で、あまり利口ではないなと感じる。なんせ少ない情報から無理やり結論を導いているので正確さに乏しいと想像できる。またそういう利口でない言動を繰り返すことで周りからの評価を下げてしまうならそれは本人にとって不利益だ。

また、私は自分の持っている属性のために不利益を被りたくはないので、差別したくなる心情はある程度察するものの、社会全体の差別度は減るとよいと考える。


だからまず個人として、自分が差別をしないように心がけることには一定の価値があると思う。
よって次以降の記事では、差別度を低くするための表現について提案したい。


ただその前に一つ伝えたいというか、考えてみてほしいことがある。

改めて考えたい事

それは、自分はどんな差別をしがちなのか、ということだ。

特にどんな属性に対する差別を自分に許しがちなのか、を自覚しておきたい。

なぜなら意識的な制御には自己認識が欠かせないからだ。

生まれ?人種?年齢?

外見?能力?職業?経済力の高低?

思想?政治色?犯罪歴?

 

なぜそれを自分の中で許したのか?それは自分の中で正しいのか、一貫性があるのか。
もしあなたも差別が減ることを望む1人なら、今一度確認していただきたい。

まとめ

・「属性から何らかのレッテルを張ること」のすべては差別行為
・自分でどんな属性に対してレッテルを張りがちか自覚的になろう

 

次以降の記事では差別構文をもった言動について、どうすれば差別的な度合いが減るか、つまり「差別度が減るか」を提案する。

 

以上、自分なりに一生懸命考えたがつたない部分もあったかと思う。不足や至らない点があれば都度ご指摘ただけると幸いである。

最後は、ネットで巻き起こる差別についての議論についての私の印象で締めくくりたい

 

ある人は「区別」の中で悪意を感じるものを「差別」と言っている。
またある人は「差別」の中で必要だと感じるものを「区別」と言っている。
たぶん「区別」と「差別」にはまだ、明確な違いがないんだろうな。

(私の印象)